2024.03.15 Friday 00:00

〇2024年3月15日 『楽しむ』ための放デイ 〜久しぶりのLino訪問(1)〜

  • Author : sakuko
  • 0

    〇2024年3月15日 『楽しむ』ための放デイ

    〜久しぶりのLino訪問(1)〜

     

    先日、1年ぶりにLinoを訪れました。

    この日は土曜日。8名の中高生が、Linoで一日を過ごします。

     

    部屋に入って最初に気が付いたのは、リビングのテーブルが小さくなったこと。

    以前は全員が座れるような大きな机とたくさんの椅子がありました。

    スタッフの方に聞くと、

    「以前は、後ろを通るたびに椅子をどかして大変だったんです。子どもたちの身体も大きいですし。

    全員がこのテーブルで過ごす訳ではないので、小さいものに変えました。」

    と、おっしゃっていました。

     

    Linoは、放デイとしては珍しく一軒家を使っています。

    リビング以外にも、和室や洋室のお部屋があり、子どもたちは思い思いの場所で、やりたいことをして過ごしています。

     

    この日、和室をのぞいてみると、新たに大きなビーズクッションが置かれていました。

    ごろんと横になったり、リビングに移動してソファーのように座ったり。と、子どもたちに大人気です。

     

    そのクッションの奥には、整理して要らなくなったものがたくさん積まれていました。

    Linoも開所して6年。知らず知らずのうちに物が増えていたようです。

    不用品を整理したことで、押し入れの中のおもちゃやゲームがすっきりと納まっていました。

     

    別室では、本の断捨離も進められていました。

    スタッフが「子どもたちのために」と思って購入した、療育や性教育の本。

    でも、彼らが手に取ることはあまりなく、処分することにしたそうです。

    そして、空いたスペースには、子どもたちが最近楽しでいる漫画が入っていました。

     

    この日の子どもたちは、

     

    ・呪術廻戦の絵をパッドに、上手に模写する

    ・和室のビーズクッションで横になりくつろぐ

    ・きなこでベイブレードやバランスボールを楽しむ

    ・自分の創作したオリジナル戦隊キャラクターを描く

    ・ちょっと遅めのお昼ご飯をキッチンで作る

     

    と、本当に色んな過ごし方をしていました。

    思春期の中高生。

    しかも個性豊かな虹色の子どもたち。

    それぞれの興味・関心も、やりたいことも全く異なります。

    そんな中で、一人一人が楽しく過ごせるように気を付けていることを、施設長の佐々木さんと、児童発達支援管理責任者の都さんに教えてもらいました。

     

    保護者とのLINEでの日々のやり取り。

    スタッフ間でのきめ細かな共有。

    それらに加え、

    「若いスタッフが、常に子どもたちの興味関心にアンテナを張って、日々、一緒に楽しんでいるんです。本当にありがたいです。」

    と、話していました。

     

    Linoでは以前、「月に一回、土曜日に皆で出かける。」という日がありました。

    今はあえて、そのような日は設けていないそうです。

    でも、子どもたちから「〇〇へ行きたい!」と、リクエストがあった時は、できる限り、出かけるようにしています。

    この日も午前中に、「新所沢のパルコへ行きたい。」という子がいて、スタッフ2名と、子どもたち2名の計4名で出かけました。

    道中、二人はアニメのマニアックなシーンの話で盛り上がり、パルコでダブルのアイスクリームを食べ、大満足で帰ってきたそうです。

     

     

    子どもたちがそれぞれ楽しく過ごすLinoでの時間。

    「以前は、帰る前に子どもたちに掃除をしてもらっていました。でも、自分だって家で掃除や料理をしたくない時もあります。だからLinoでの掃除も、『子どもたちの自主性に任せよう。』ってスタッフで決めたんです。

    私たちが彼らの掃除にこだわらなくなったら、子どもたちが一日を楽しく過ごした、とてもいい笑顔で帰っていくようになったんです。」

    そう言いながら、そのスタッフもとても嬉しそうでした。

     

    さらに子どもたちに別の変化も出てきたようです。

    そのことについては、次回のコラムでお伝えさせていただきますね。

    (sakuko

     


    2024.03.01 Friday 00:00

    「異なる彼らとつきあいながら、自分をどれだけ解放できるか」 〜久しぶりのきなこ訪問(4)〜

    • Author : sakuko
    • 0

      「異なる彼らとつきあいながら、自分をどれだけ解放できるか」

      〜久しぶりのきなこ訪問(4)〜

       

      <前回の続きです>

       

      30年特別支援学校の先生だったXさん。定年退職ののち、えがおのたねのスタッフになりました。

       

      かつて先生だった時には、子どもたちに対して、「〜ができるように」「〜させなきゃ」という思いもあったそうです。

      「『学校だから、子どもたちに〇〇をさせなきゃいけない』、『〇〇をできるようにしなきゃいけない』っていう、何となく重苦しい『雰囲気』が、学校の中にあるだけでなく、学校の外からも迫っているように感じていたんですよね。『先生や親の言うことを聞いて、がんばれば、必ず幸せな未来が待っている。だから子ども時代は『がまん』しましょう』というのも、この『雰囲気』に含まれます。『雰囲気』の濃淡は、私が経験してきた学校や地域よって違っていたし、誰かが、はっきりと言っているわけではなく、あくまで『雰囲気』なので、私の考えすぎかもしれないのですが・・・・。」

       

      この「重苦しい雰囲気」の背景についてXさんは、「私の全くの個人的な意見ですが・・・」とことわりながら、次の様に話しを続けられました。

      「大げさな事をいうと、1872(明治5)年の『学制』交付からの、日本の学校教育150年間の歴史がもつ、『重苦しい』部分を感じ取っていたのかもしれません。

       日本に限らず、義務教育制度はどの国でも、近代国家制度の発足とともに始まりました。この時に、義務教育の学校に課せられた大きな役割は、近代国家を支えることができる『人材の育成』にあったし、これは今でも必要な学校の役割のひとつだと思います。

       同時に、子どもたち一人一人の潜在的な可能性を引き出し、『自己実現』を図るのも、義務教育の大きな役割です。

      そして人々は、学校で培われた『自己実現』につながる知識と論理的・創造的に物事を考える力を使い、既存の国家・社会の在り方を批判的にとらえ、よりよい国家・社会を形成するのですから、『国家・社会の役に立つ人材の育成』と『自己実現』は矛盾するものではないのです。

      戦後、日本国憲法のもとで、義務教育を保障することは国家と保護者の義務であり、子どもたちには『教育を受ける権利』があることが制度上、明らかにされました。教育基本法でも教育は『人格の完成』をめざすのであり、教育によって育成された人材によって『平和的で民主的な国家及び社会』が創られると明記されました。つまり、現在の学校教育は、『今の世の中』で『役に立つ』人間を育てることだけを目標とはしてはいないのです。

       実際、近代日本の教育の歴史を見てみれば、黒柳徹子さんが書かれた『窓ぎわのトットちゃん』にみられるように、多様な子どもたちの多様な『自己実現』をめざした教育実践は、戦前の日本においても、そして現在に至るまで、いろいろな形で展開されてきたのです。これは日本教育史の『光と希望』の部分と言ってもいいでしょう。

      一方、国によって、時代によっては、『国家・社会に役に立つ人材の育成』という側面が一面的に強調されることがありました。日本であれば、戦時中は『兵員』の育成に、戦後の一時期は高度経済成長を支える『労働力』の育成に教育が偏ってしまったことがあって、これが、未だに尾を引いている部分があるように、私は思うのです。今は、そういう時代ではないはずなのですが・・・・。

      悲しいけれど、『欧米に追い付け、追い越せ』を『国是』としなければならず、その『国是』のために一生懸命に尽くしてきたという一面を日本の学校教育はもっていて、その影を、未だに引きづっていると思う、などというと怒られそうですが・・・・。

      そういう重い歴史を背景に、『役に立つ、迷惑にならない人間を育て、どのくらい、そういう人間になったのかを点数で測るところ』という学校観が、未だに、世間一般の『常識』として広まっているように感じてならないのです。

       この『常識』とか『雰囲気』というのが曲者です。政治が変わり、教育制度が変わったからといって、『常識』や『雰囲気』はそう簡単には変わらないわけで、そこに根深さがあるように思うのです。『常識』に流されずに、『学校とはそもそも何のためにあるのか』を『ふんばって』考え続けないと、いつの間にか『常識』に取り込まれ、『雰囲気』に染まってしまう怖さがあります。これは、先生や保護者だけでなく、直接、学校に関わらない人たちも含めた私たちみんなに言えることです。

      子どもたちが学校の外で何が目立つことをすると、『学校は何やっているんだ!先生は何やっているんだ!』と、『常識』的な世間一般の人々からの学校へのお叱りの声が少なからずあがりますね。あれにも先生方は必死に応えようとし、子どもたちが『きちんとできるように』がんばってしまう。これも学校をとりまく『常識』と『雰囲気』のなせる業でしょう。

      私自身、学校で働いていた時には、お恥ずかしながら、『常識』に流され、『雰囲気』に染まっていたと思いますし、学校を離れた今だって、『学校なんだから、子どもたちに〇〇させてもらわなきゃ』などと、意識せずに思ってしまう時もあります。

       この『常識』や『雰囲気』が、私の感じていた『重苦しさ』とつながるように思うのです。」

       

      Xさんは、きなこで働くようになって、「改めて自分の『先生くささ』を感じた。」そうです。

      そして、次第に、「『ここは学校じゃない』と方向転換しないと、自分自身も面白くない。」と思うようになりました。

       

      それからは、子どもたちを「待つ」ようになりました。

      すると、以下の気づきがあったそうです。

       

      「以前は子どもたちを大人の世界に合わせようとしていた。その結果、障害について色々勉強していても、知識で終わってしまい、それがいかせなかった。 

      今、子どもを待つようになって感じるのは、待っている間、子どもの内面に同期(シンクロ)している自分がいる。これが、本来の意味でのアセスメント(実態把握)であり、このレベルのアセスメントがあって、はじめて知能検査結果なども意味をもってくるのだと思った。」

       「思えば、『いかに同期(シンクロ)できるか?』ということに対しての知識だったはずなのに、そこが見えなくなっていた。」

      そして、「もともと、こういう関係を目指したかった。」と実感されたそうです。

      その結果、「自分自身の気持ちが楽になった。」そして、「大人が楽しそうにしている姿が、子どもたちにも影響し、子どもたちの成長が違う。」と話されました。 

       

      さらにXさんは、

       

      「かくあるべし」を手放すことで、「子どもたちの世界観」そのものに接近できる。

      「かくあるべし」は自分、というより私たちがどっぷりつかっている、歴史的に作られた普遍的ではない価値観からのもの。ここから距離をとろうとして、はじめて、自由になれる。

       

      と、感じたそうです。

       

      確かに、私たちは産まれた時は何一つ「かくあるべし」という価値観を持っていません。

      けれど、成長していく過程で、世間の価値観や他者の評価を身にまとい、様々な「かくあるべし」を身に着けていきます。

      「〜らしさ」「普通は」「常識・非常識」「当然」…。

      そのような言葉も、「かくあるべし」という思いから生じた言葉のように感じます。

       

      「かくあるべし」を持たない自由な子どもたち。

       

      そんな子どもたちを理解することは、異文化を理解することだと、Xさんは言います。

       

      確かに、海外旅行のように、「違うもの・異なるもの」に触れることは、自分に色んな気づきをもたらします。

       

      Xさんはさらに、「今後、障害児福祉の仕事につきたい」という若い人たちに向けて、次のようにお話しされました。

      「子どもたちに『何をしてあげられるか?』よりもむしろ、『異なる彼らとつきあいながら、どれだけ自分を解放できるか?』『自分を解き放ち、楽しい人生を送れるか?』そちらを期待してほしいです。

       『障害特性に合わせた子どもとのかかわり方』や『心理検査の使い方』などの勉強もされると思いますが、そういうことも、『自分とは異なる子どもたちの、未知の「見て、聞いて、感じている世界」にせまりたい』という構えがあれば、単なる技法の習得に留まらず、深く、楽しく学べます。

       放課後等デイサービスなどの障害児通所支援は、現在の形で制度が始まってから、まだ10年ちょっとです。歴史を創っていくのは、若いみなさんです。開拓者として、多様な子どもたちの多様な世界を、思い切って探求していってください。」

      と話されました。

       

      Xさんは、学校の先生方にも、次の様なエールを送ります。

      「『今の世の中の役に立つ、迷惑にならない人間を育てるのが学校』という世間一般の『常識』と学校内外からの『雰囲気』の『重苦しさ』を感じながらも、かつての私よりも、よほどしっかりと『ふんばり』、少数派の子どもたちにも同期する力を磨き、子どもたちの多様な可能性を切り開く、豊かな実践を行っている先生方が、今、身近な所にもいらっしゃるのです。

       その中にはベテランの方々も、若い方々もいます。肩ひじはらずに仲間の先生方や保護者と関わり、しかし眼差しはずらさずに子どもたちに向け、さりげなく『ふんばる』、本当の意味で『かっこいい』先生もいれば、『重苦しい雰囲気』に染まった学校の中で孤立しがちでも、『自分が先生になった原点』に立ち返って『ふんばり』、少数派の子どもの視点にも立とうとする先生もいます。『常識』に流されがちだった私から見れば、そういう先生方が『まぶしく』見えるのです。

       この方々は、150年の厚みがある日本の学校教育の『光と希望』の部分を受け継ぎ、今の現場の最前線で体現されている先生たちです。

       今、私は学校の外から、それらの先生方から学び、先生方を応援し、先生方と共に歩んでいきたいと思うのです。そのために、私がめざしたいのは、子どもたちがきなこで見せる豊かな彩を、そういった先生方にも届くように発信することです。」

       

      私はXさんの話を聞きながら、「いろとりどりの親子」という映画のレビューを思い出しました。

      この映画は、自閉症・低身長・犯罪者になった子など、様々な少数派の子と、その親の姿を10年間取材したドキュメンタリー映画です。

      自身も性的マイノリティ−であるブルボンヌさんは、レビューで以下のように書かれていました。

       

      「親に『そう生まれた』ことを嘆かれた人たちは、私のまわりにも少なくない。

      少数者に生産性があるか、ではなく、そのカラフルな存在によって『親や社会が気づき変わること』に

      生き抜く希望があるのだ。」

       

      「色んな人がいる。そして自分もその中の一人にすぎない。」

      と言うXさん。さらに、

      「『こんなに面白い人もいるんだから、人間の社会って結構面白いよ。』

      そんなことをこれからもえがおのたねで発信していきたい。」

      と話されました。

       

      私もこれからの取材で、自由な彼らから、どんな気づきを得られるのか?
      そして、気づかず身にまとっている、様々な「かくあるべし」から自分自身を解いていくことができるのか?

      心から楽しみです!

      (sakuko

      https://longride.jp/irotoridori/


      2024.03.01 Friday 00:00

      「異なる彼らとつきあいながら、自分をどれだけ解放できるか」 〜久しぶりのきなこ訪問(4)〜

      • Author : sakuko
      • 0

        「異なる彼らとつきあいながら、自分をどれだけ解放できるか」

        〜久しぶりのきなこ訪問(4)〜

         

        <前回の続きです>

         

        30年特別支援学校の先生だったXさん。定年退職ののち、えがおのたねのスタッフになりました。

         

        かつて先生だった時には、子どもたちに対して、「〜ができるように」「〜させなきゃ」という思いもあったそうです。

         

        「子どもたちに何かをしないといけない。」

        その思いはどこから来ていたのでしょうか?

         

        Xさんは、「教員時代の30年を否定するわけではないけれど…」と前置きをしたうえで、

        「当時は、学校の先生であることの重苦しさも感じていた。」と話されました。

         

        それは、「1872年(明治5年)以来、150年の蓄積をもつ、義務教育学校の重さ。」からだと言われました。

        具体的には、


        〇日本のみならず近代国家の義務教育学校が、「国家・社会の求める人材を育成する」ことを目的としてきたこと。

        (戦時中には兵隊。高度経済成長期には企業戦士という形で。その結果、二度の大戦が起きた。
        さらにそれと一体になった産業構造が、地球環境そのものをおかしくするような事態を招いた。)

        〇そこから、国家に貢献できない人たちや民族の規範に逆らうような人たち(障害者や性的マイノリティー、少数民族など)を少数派として位置付けた。

        〇それらの反省から、1989年に採択された子どもの権利条約では、

        「 (児童の教育とは、)児童の人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること」(29条)と定めた。

        〇しかし日本では、義務教育学校が始まってからいまだに、伝統的な文化・観念や慣行などの社会構造が「国家・社会の求める人材を育成すること」に重点をおいている。

        〇だからこそ、世間の人たちが学校に求めるものも大きいし、学校の重苦しさに息苦しさを感じている先生も多い。

         

        と説明されました。

         

        Xさんは、きなこで働くようになって、「改めて自分の『先生くささ』を感じた。」そうです。

        そして、次第に、「『ここは学校じゃない』と方向転換しないと、自分自身も面白くない。」と思うようになりました。

         

        それからは、子どもたちを「待つ」ようになりました。

        すると、以下の気づきがあったそうです。

         

        「以前は子どもたちを大人の世界に合わせようとしていた。その結果、障害について色々勉強していても、知識で終わってしまい、それがいかせなかった。 

        今、子どもを待つようになって感じるのは、待っている間、子どもの内面に同期(シンクロ)している自分がいる。これが、本来の意味でのアセスメント(実態把握)であり、このレベルのアセスメントがあって、はじめて知能検査結果なども意味をもってくるのだと思った。」

         「思えば、『いかに同期(シンクロ)できるか?』ということに対しての知識だったはずなのに、そこが見えなくなっていた。」

        そして、「もともと、こういう関係を目指したかった。」と実感されたそうです。

        その結果、「自分自身の気持ちが楽になった。」そして、「大人が楽しそうにしている姿が、子どもたちにも影響し、子どもたちの成長が違う。」と話されました。 

         

        さらにXさんは、

         

        「かくあるべし」を手放すことで、「子どもたちの世界観」そのものに接近できる。

        「かくあるべし」は自分、というより私たちがどっぷりつかっている、歴史的に作られた普遍的ではない価値観からのもの。ここから距離をとろうとして、はじめて、自由になれる。

         

        と、感じたそうです。

         

        確かに、私たちは産まれた時は何一つ「かくあるべし」という価値観を持っていません。

        けれど、成長していく過程で、世間の価値観や他者の評価を身にまとい、様々な「かくあるべし」を身に着けていきます。

        「〜らしさ」「普通は」「常識・非常識」…。

        そのような言葉も、「かくあるべし」という思いから生じた言葉のように感じます。

         

        「かくあるべし」を持たない自由な子どもたち。

         

        そんな子どもたちを理解することは、異文化を理解することだと、Xさんは言います。

         

        確かに、海外旅行のように、「違うもの・異なるもの」に触れることは、自分に色んな気づきをもたらします。

         

        Xさんはさらに、「今後こういう仕事につきたい。」という若い人たちには、

        「彼らに『何をしてあげられるか?』じゃなくて、

        『異なる彼らとつきあいながら、どれだけ自分を解放できるか?』

        『自分を解き放ち、楽しい人生を送れるか?』そちらを期待してほしい。」

        と話されました。

         

        私はXさんの話を聞きながら、「いろとりどりの親子」という映画のレビューを思い出しました。

        この映画は、自閉症・低身長・犯罪者になった子など、様々なマイノリティーの子と、その親の姿を10年間取材したドキュメンタリー映画です。

        自身もLGBTであるブルボンヌさんは、レビューで以下のように書かれていました。

         

        「親に『そう生まれた』ことを嘆かれた人たちは、私のまわりにも少なくない。

        少数者に生産性があるか、ではなく、そのカラフルな存在によって『親や社会が気づき変わること』に

        生き抜く希望があるのだ。」

         

        「色んな人がいる。そして自分もその中の一人にすぎない。」

        と言うXさん。さらに、

        「『こんなに面白い人もいるんだから、人間の社会って結構面白いよ。』

        そんなことをこれからもえがおのたねで発信していきたい。」

        と話されました。

         

        私もこれからの取材で、自由な彼らから、どんな気づきを得られるのか?
        そして、気づかず身にまとっている、様々な「かくあるべし」から自分自身を解いていけるのか?

        心から楽しみです!

        (sakuko

         


        2024.02.15 Thursday 00:00

        「子どもたちを『待てる』新しいスタッフたち」〜久しぶりのきなこ訪問(3)〜

        • Author : sakuko
        • 0

          「子どもたちを『待てる』新しいスタッフたち」

          〜久しぶりのきなこ訪問(3)〜

           

          <前回の続きです>

           

          12月の寒い日に土間で水遊びをして4回もズボンを履き替える子。

          色水の入った洗面器に次々とミニカーを投げ入れていく子…。

          約一年ぶりに訪れた放デイのきなこ。

          思い思い自由に遊ぶ子どもたちと、それを楽しそうに見守るスタッフの姿が印象に残りました。

           

          スタッフのXさんは、30年以上支援学校の先生でした。

          この日、あるお子さんが水道の蛇口に風船をはめて、水風船を作っていました。

          これは、土間に叩きつけて割って遊ぶための水風船です。

           

          その子は、水でいっぱいになった風船を、隣にいるXさんに次々と渡していきます。

          「こうやって『結んで』って感じで渡してくるんだよね〜。」

          と笑顔で語るXさん。えがおのたねの10周年の講座では、

          「最近入ってきた若いスタッフの人たちから学んでいる。」

          とも話されていました。

          長年、特別支援教育に携わってきたXさんが、若いスタッフの人たちから何を学んでいるのか?

          その部分がとても気になり、Xさんから詳しいお話をうかがいました。

           

          最初にXさんは、実際にきなこで驚いた子どもたちの様々な遊び方を教えてくれました。

          ・ミニカーに小麦粉粘土をぬる。片付ける時には自分で水洗いをする。

          (「ミニカーで水遊びができるんだ。」と思った。)

          ・水彩画で使うパレットのそれぞれのマスぎりぎりにまで色水をはる。

          ・散歩で集めた土や葉っぱと絵の具をまぜる。

          ・液体せっけんと絵の具を混ぜる。色の違う泡でパレットのマスを満たす。その泡で絵を描く。

           

           

          そして、そのようなユニークな遊びをする子どもたちを「待てる」のが新しいスタッフの人たちだそうです。

          危ないことは止めるけど、あとはその子がやりたいことをやり切るのをじっと待つ。

          そんな彼らの対応に、最初は違和感を覚えつつも見守っていたXさん。

          けれども待つことで、予想もしないような面白いことが次々と起きました。

          そんな経験から、今では新しいスタッフの人たちから積極的に「学ばなきゃ」と思うようになったそうです。

          Xさんは、子どもを待てるスタッフたちは同時に、「世間の常識を外から見ることができる人たち」であり、「それが重要だと思う。」と話されました。

           

          ここでXさんは、一冊の本を後ろの書棚から持ってきました。

          星槎大学 阿部利彦先生の、『発達障がいを持つ子の「いいところ」応援計画』。

          そしてこの本に、「『心のストライクゾーン』をちょと広げて見てあげてはどうでしょうか」という文章があるのを教えてくれました。

          「心のストライクゾーン」。

          これは、色んなことを受け止められる、「気持ちの幅」のようなものかもしれません。

          Xさんは、「ストライクゾーンを狭くしちゃうとお互い疲れるよね。最近では、『暴投とデットボール以外ならまあいいんじゃない?』と思うようになって。暴投は球がどこかに行って試合がなりたたないし、デットボールはケガしちゃうから。でもそれ以外ならいいんじゃないか。って。」と、笑いながら話されました。

          さらに、「彼らを見ていると、もともと人間の行動は、『役に立つ・たたない』ではなくて、『やってみたいな』と思う気持ちからはじまるということがよくわかる。」と言われました。

          そして、今まで自分が子どもたちを止めたり急かしたりしていたのは、「大人のつくった社会の都合にその子を合わせようとしていたから。」ということに気づいたそうです。

          それからは、「危険がない限りできるだけ子どもたちの『やりたい』という気持ちを尊重する」ということを、日々スタッフの間で確認し続けています。

           

          そんな日々の中で、子どもたちに対して、「〜ができるように」「〜させなきゃ」という考えを徐々に手放していけるようになったXさん。

           

          次回は、かつてXさんが持っていた、「子どもたちに何かをしないといけない。」という気持ちがどこからきていたのか?また、それらを手放していく過程で、Xさん自身におきた気持ちの変化についてお伝えしたいと思います。

           

           

          <次回に続きます。>

           

          (sakuko


          2024.02.01 Thursday 00:00

          「自分を大切にされた人は、相手を大切にする」 〜久しぶりのきなこ訪問(2)〜

          • Author : sakuko
          • 0

            「自分を大切にされた人は、相手を大切にする」

            〜久しぶりのきなこ訪問(2)〜

             

            「危険がない限りできるだけ自由に子どもたちの『やりたい』という気持ちを尊重する」

            というスタッフの思いのもと、実に自由に。そして楽しそうに遊ぶきなこの子どもたち。

             

            彼らの笑顔を見ながら、昔読んだ、相模女子大学教授の日戸由刈先生の文章を思い出しました。

            日戸先生には、もう亡くなられましたが、重度の自閉症のお兄さんがいらっしゃいました。

             

             

            一般社会との接点は大切 −自分を尊重される経験を持つことは、もっと大切−

             

            自閉症の人たちのありのままを受けいれましょう、といったテーマを掲げていても、世の中の教育や療育はどうしてか、結局自閉症の人たちを「一般社会の中に適応させる」ことを最たる目的にしてしまいがちです。(略)

             たしかに、一般社会と接点を持って、うまくやっていくことは大事です。自閉症の人たちばかりの世界があるわけではなく、必ず一般社会で暮らしていくことにはなるからです。

             しかしそれ以前に、自閉症の特徴を持った自分を尊重される経験を持つという事が非常に大切です。自分を大切にされた人は、相手を大切にすることができます。それはどんな子どもでも一緒です。ですから、まずは周りの人たちが、自閉症の人たちの特徴を尊重しなくてはいけません。問題行動で直さなくてはいけないもの、と見るのではなく、尊重するのです。これはやはり、私自身に家族としての長年の経験があったからこそ、体得できたことではないかと思っています。ただ、兄は重度の知的障害を持った自閉症だったので、彼自身にはどうにもできないことがはっきりしていました。兄の方から一般社会の側の私たちには絶対歩み寄れません。それゆえ、こういった感覚を持つことが容易だった部分はあるかもしれません。

             

            『わが子が発達障害と診断されたら』より

             

             

            ***********************************

             

            この日、きなこの子どもたちは、実に自由に遊んでいました。

             

            彼らが我が子だったら、

            「こんな寒い日にそんなところで遊ばないの!」

            「部屋が濡れるからやめて。」

            そんなふうに言って、こちらの都合で止めていたと思います。

             

            とっても楽しそうに遊ぶ彼らの姿を見つつ、

            「こんなに自由にさせていて大丈夫なのだろうか?」

            と心配にもなりました。

            でも、なかなか帰りたがらなかったC君も、靴下や車の座席の写真を何度か見ることで、スムーズに外に出ました。

             

            結局この日は、パニックになる子も他害をする子もおらず、それぞれが「遊びきった!」という満足そうな表情で帰っていきました。

             

            実は以前のC君は、トイレの水を流し続けたりするこだわり行動が多くあったそうです。

            Xさんはこんなエピソードも教えてくれました。

            ある日C君は、大好きな音の鳴る絵本を、土間で水遊びしながら使いたがったそうです。

            スタッフは、それを無理に止めず、ビニールで防水して、水遊びしながら使えるようにしました。

            C君は、はじめこそ、そのビニールを嫌がりましたが、今では自らビニールに入れて、土間へ持っていくようになったそうです。

             

            C君はほかにも、

            ・活動と活動の間の区切りが入るようになった。

            ・好きなものを通じてコミュニケーションが増えた。

            ・活動への満足感が見られるようになった。

            など、良い変化がたくさんありました。

             

            今回、久しぶりにきなこを訪問して、まず子どもたちの自由度のパワーアップに驚きました。

            それと同時に、スタッフの方々の楽しそうな表情もとても印象に残りました。

             

            30年以上支援学校の先生だったスタッフのXさん。

            「最近入ってきた若いスタッフの人たちから学んでいる。」

            と話されていました。

            次回は、そんなXさんから詳しくお話を伺いたいと思います。

             

            <次回に続きます。>

            (sakuko


            <<new | 1 / 16pages | old>>
             
            CALENDAR
            NEW ENTRY
            ARCHIVES
            PROFILE
            MOBILE
            LINK
            SEARCH
            OTHER

            (C) 2024 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.